Kai Paaka Siddhi を身につけるべく
- 2007/11/16
- 14:58
今思うと、Kai Paaka Siddhi の手を作るべく、私のカラリマッサージのトレーニングが始まったのは、およそ1年半ほど前。カラリ道場に弟子入りしてからおよそ1年後くらいだろうか?
通常は、こんなに早くには治療の指導は受けることができないので、他の西洋人の生徒から、< どうして、薫はもうマッサージを習っているのか? >と思われることがあったが、私は、アーユルヴェーダの勉強をしているし、その知識はカラリの治療に共通する知識だから、いち早く理解でき、また、それによって、カラリのすばらしさもより理解できる、といったことから、私の場合は、人より早くに治療の指導をしてもらっていました。
その時は、Kai Paaka Siddhi などという言葉は知らずに、先生に言われるまま地元の女性患者の体を、見よう見真似で触っていた。
時々、< そうじゃない、そうじゃない、これはこういう風にしてなでるんだよ。>という風な、指導は受けるものの、具体的な違いや、どうしてそのようにしたほうがいいのか、などの理論的な説明はその場では全く無い。
頭で考えることなしに、ひたすら先生の治療を見て、まねをして、それを繰り返すのみ。質問を多くするのは、良しとされない伝統。治療そのものを、手にしみこませるといったような感じだ。
でも、時々、治療現場とは全然関係ない場面で、先生がちらっと治療の知識を口からもらす。そうすると、前に患者に触った時の感覚と、ちらっと先生の口からこぼれた情報とが、自分の頭の中で理論的に融合し、<あーーこれは、こうだからなんだ。>と、納得することがある。
マッサージをやり始めの頃は、治療を学んでいる、というよりも、先生のお手伝いをしていると、思い上げっていたのかもしれない。
今、このような、Kai Paaka Siddhi の話を聞くと、実は、先生は私から手伝いが欲しいのではなく、私の観察力を試し、それとともに治療の指導をしていたのだ、というのがわかる。
また、先生も、治療のレッスンをするというのではなく、< 薫。今日も、私の治療を手伝ってくれ。> という風に、言ってくるのだ。
だから、観察力がよくないと、いつどこで知識の言葉や行動がカラリ師匠からもれるのか、見過ごしてまう。先生のそばではいつも、知識のうつわを空っぽの状態で準備し、それとともに意識を尖らせていないと、勉強の場そのものを見過ごしてしまうのだ。
形式だって、<この時間は、この授業をする>、とか、<なんとか治療何ヶ月コース>とか、そういった形での学びではなく、あくまでも、先生と多くの時間、年月を通して、先生のそばで生活を共にすることによって、得られる知識。
先生も、信頼をおいている生徒にしか基本的に知識を授けることはないので、長い年月先生のそばにいることによって、生徒の知識を受け取るうつわを見てから、それに見合った知識を授ける。
これぞ、グルクラ勉強といった感じだ。
グル=先生
クラ=家族、家
そしてこうして得られた知識は、グルシシャパランパラー なのだ。
グル=先生
シシャ=生徒
パランパラー=伝統、受け継がれる
通常は、こんなに早くには治療の指導は受けることができないので、他の西洋人の生徒から、< どうして、薫はもうマッサージを習っているのか? >と思われることがあったが、私は、アーユルヴェーダの勉強をしているし、その知識はカラリの治療に共通する知識だから、いち早く理解でき、また、それによって、カラリのすばらしさもより理解できる、といったことから、私の場合は、人より早くに治療の指導をしてもらっていました。
その時は、Kai Paaka Siddhi などという言葉は知らずに、先生に言われるまま地元の女性患者の体を、見よう見真似で触っていた。
時々、< そうじゃない、そうじゃない、これはこういう風にしてなでるんだよ。>という風な、指導は受けるものの、具体的な違いや、どうしてそのようにしたほうがいいのか、などの理論的な説明はその場では全く無い。
頭で考えることなしに、ひたすら先生の治療を見て、まねをして、それを繰り返すのみ。質問を多くするのは、良しとされない伝統。治療そのものを、手にしみこませるといったような感じだ。
でも、時々、治療現場とは全然関係ない場面で、先生がちらっと治療の知識を口からもらす。そうすると、前に患者に触った時の感覚と、ちらっと先生の口からこぼれた情報とが、自分の頭の中で理論的に融合し、<あーーこれは、こうだからなんだ。>と、納得することがある。
マッサージをやり始めの頃は、治療を学んでいる、というよりも、先生のお手伝いをしていると、思い上げっていたのかもしれない。
今、このような、Kai Paaka Siddhi の話を聞くと、実は、先生は私から手伝いが欲しいのではなく、私の観察力を試し、それとともに治療の指導をしていたのだ、というのがわかる。
また、先生も、治療のレッスンをするというのではなく、< 薫。今日も、私の治療を手伝ってくれ。> という風に、言ってくるのだ。
だから、観察力がよくないと、いつどこで知識の言葉や行動がカラリ師匠からもれるのか、見過ごしてまう。先生のそばではいつも、知識のうつわを空っぽの状態で準備し、それとともに意識を尖らせていないと、勉強の場そのものを見過ごしてしまうのだ。
形式だって、<この時間は、この授業をする>、とか、<なんとか治療何ヶ月コース>とか、そういった形での学びではなく、あくまでも、先生と多くの時間、年月を通して、先生のそばで生活を共にすることによって、得られる知識。
先生も、信頼をおいている生徒にしか基本的に知識を授けることはないので、長い年月先生のそばにいることによって、生徒の知識を受け取るうつわを見てから、それに見合った知識を授ける。
これぞ、グルクラ勉強といった感じだ。
グル=先生
クラ=家族、家
そしてこうして得られた知識は、グルシシャパランパラー なのだ。
グル=先生
シシャ=生徒
パランパラー=伝統、受け継がれる
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